2020年2月20日木曜日

2020年02月20日

19日夜

店を閉めて、光沢紙にインクで絵を描く。1枚良いのができた。
バイト行って、帰って読書。堀江敏幸「ゼラニウム」読み終える。


20日

朝9時半起き。たくさん寝た。
岡崎乾二郎「抽象の力」読み始める。漱石が読みたくなる。20世紀初頭の日本美術の動向について、もっと知りたい。

開店。こつこつと品出しを進める。文学、社会学など。

instagramにアップした絵を、友人の二艘木洋行がほめてくれてうれしい。
いつでもふわっと手が動いて絵が描ける状態に自分を置いておきたい。考えているばかりではなく作ることで自分が現実と結ばれる。言語や理論からずれたものがじゅわじゅわと湧き出して定着される。その痕跡を後から見て、すぐに忘れてしまったはずの感覚を思い出すこともある。
作っている時に得られる感覚のうち9割以上は作業を終えたら忘れてしまっていて、作業を再開してもその半分も戻ってはこない気がするけど、また新たに膨大な量の感覚を得ることができる。しかしそれもまた9割忘れてしまう。

買い取った本に絵葉書が挟まれていた。以下はその文面。
「前略 御手紙有難うございました。大学入試大層残念でしたね。でも浪人生活もそれ程悪いものでもなく むしろ大学へはいってから後によかったと思うかもしれませんですからしっかりがんばって下さい。最後になりましたが御返事は五月三日午後三時玉藻公園西入口前にて かしこ」
「でも〜」の部分の文章が長く感じられる。句読点の少なさは、容易に修正の効かない手書きによる文章であるために、句読点を打つタイミングを見失っても(速さを優先するためか、修正跡の汚さを避けるためか)そのまま書かざるを得なかったことによるものだろう。さらに重要なのは、葉書を受け取る側も、「そのまま書かざるを得なかった」ということが引き起こした文章の長さが醸し出す可笑しさを引き受ける心の準備ができていたのではないか、ということだ。
文末の「御返事」の部分からは、返事をもらうまでの時間があらかじめ設定されることで、送る側と受け取る側の言葉がSNSやLINEとは違う形で熟成されるであろうことが想像できる。「既読」かもわからない。「読んでくれているだろう」という期待でもって、相手を思い出し続ける。

夕ごはんはぶり大根と、白菜のツナマヨ和え。白菜のうまい消費方法を試せてよかった。

今日もバイト。

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