2021年10月22日金曜日

悲しさそのもの(2021年10月22日)

21日夜

閉店後、風呂に入って読書。小島信夫「釣堀池」読み終えて寝る。


22日

朝8時前に起きる。ゴミ捨て、朝ごはん。

まどがふとしたきっかけから過去のことを思い出したようで、いろいろ話す。ある程度生きていろいろやっていると新しい出会いもあるし、寂しさや嫉妬から仲がこじれることもある。いつの間にか相手が自分から目を逸らすことが耐えがたくなり、なんとしても気を引き、自分のことを考えさせようとして、相手のことを考えなくなっていく。恐ろしいけどそれが人間らしくもあって良いけど面倒くさいし、最終的に関係を壊す。「付き合う/別れる」という概念は「壊れた」ことをわかりやすくする。その人の表現に惹かれて近付いたはずが、人となりを知るうちにその人の秘密を掴んだような気になったり、緊密になるうちに関係している動機の多くが自分の寂しさになっていたことに気がついて(今まで何年も気がついていなかった?最初からそうだったんじゃないか?)、ぞっとしたりもする。東京にいた頃、絵を描いている人や展覧会を企画している人と話していると、「そことそこ繋がってるんだ、面白いね」とか、グループ展をやるにしても普段の交友関係を頭の中に置いた上で「組み合わせの意外さ」を演出したりするけど、そういうのは人数の分母の大きい都会ならではの会話だなと思う。話がそれたような気がするけど全体を見渡しながらできるだけ詳細に言いたい。

ある人に悲しいことを言われたとして悲しくなったとする。その時に「悲しくなった自分」や「『ある人』の思惑」は重要ではなくて、主体から切り離された「悲しさそのもの」というのがあって、それに触れあっている時間が好きだし、それで絵が描けたらいいなと思っている。復讐心やパワーゲームの面白さに引っ張られているうちはだめだ。

先日父親から、同郷の〇〇さんがオリンピックでメダルを取ったんだよ、とLINEが来た。自分はこのニュースをLINEで初めて知って、自分の生来の帰属意識のなさとオリンピックへの反発心から、どう処理していいのかわからなくなった。父親に「やはり故郷と自分は紐づいているものなのか。メダル獲得を一緒に喜んでくれるはずという希望があるのか」というような内容の返信をすると、翌朝なんの関係もなく稲刈りが終了した田んぼの写真が送られてきて、これはすごいと思った。この田んぼの写真は自分とも父親とも切り離されていて、しかし曇り空と田んぼは紛れもない故郷の風景で、「悲しさそのもの」という感じがした。こういう「会話」だけで日々暮らせたらどんなにいいだろう。

公園に行く。保育士さんと園児たちが運動会ぽいことをやっている。少しスケッチブックに絵を描いて、沢山遼「絵画の力学」読み始める。最初のポロック論おもしろい。トーベ・ヤンソン「たのしいムーミン一家」続き読む。家に帰り、キャンバスの下塗り。

開店。品出し、ネット出品作業。店頭買取1件。段ボール10箱以上あったので査定して後ほどお振り込みということになる。今日も査定の一日。今日の買取分は査定終了し、お振り込み。太宰の初版本が何冊か入りうれしい。何日かあまり品出しのできていない日が続くと棚に隙間ができてくるのが苦しいけど、なんとかごまかしている。暖さん来てくれて少し話す。

今日はこれからもう少し作業。

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